「閾値(“しきい・ち” or “いき・ち”)」とは、もともとは生物学や心理学の専門用語で、「生体の感覚に訴え、行動を起こさせる際の、最小量の刺激量」を意味します。「閾」とは「=敷居(しきい)」で「一線を画す」的なもの。「閾値」は医療従事者の皆さんが疼痛管理などで教わる、「閾値が高いと痛みにも我慢できる(低いと痛みを訴える)」など限界値的な“ソレ”のことです。さて今回は、これを人事管理に置き換えてみましょう。未処理の仕事がどんどん積み上がっているのに、それで上司がガンガン指示を出しているのに「そんなのどこ吹く風で、ぜんぜん余裕な感じの仕事環境に無関心な自由人」がいる一方で、依頼や指示のメールが一通来たら直ぐ処理しなければと動き出し、同僚の処理スピードが遅れているとついつい手が出てしまう「仕事の情報がちょっとでも入ってしまうと、それに対応しなきゃ落ち着かない勤勉な組織人」がいらっしゃいます。つまり、「仕事と個人の間にある閾(しきい)の高さ」が人によって全く違うのです。
この「仕事と個人の閾値」が大きく異なるスタッフを同一職場に入れてしまうと、様々な人事管理のトラブルが発生します。「Aさんは全然動かない、私はいつも彼女の尻ぬぐいばかり!」、「B君は残業も厭わないのに、同期のCは同じ仕事で直ぐ音を上げる‥」などなど同僚同士、上司部下で不平不満のオンパレード。最近では、大企業での過労死自殺が社会問題となり、政府は労働強化を廃し長時間労働を削減する「働き方改革」を進めていますが、もちろん法令違反や人権無視は論外として、閾値が高い人と低い人では、「働き方」への感度や反応が異なって出てきてしまうのです。同じ能力を持ち同じ職場で同じ仕事を同じ程度でしていても、「政策とか関係ない! 目の前に仕事があれば、そうするでしょ」と言う人もいれば、「われわれの職場は完全に異常な状態。誰か労基署に訴えてくれないかな‥」と考える人もいる。働きアリなど下等な生物の「仕事の閾値」は、働く生命体として持続可能なように「疲弊したら閾値が上がり、仕事環境からの情報に反応しなくなって休む(体力回復したら閾値が下がり、働き始める)」のですが、感情と大脳が発達し、恐怖と煩悩にまみれた人間の労働者は、閾値が低いまま働き過ぎて燃え尽きたり、閾値が高いままサボりまくって左遷されたりするわけです。
人材の採用及び職場への配置を司る人事担当が最も気にかけなければならないのは、職業安定法や労働基準法の遵守は当然として、それ以上の興味関心をもって、採用配置対象となる医療従事者個々人の「仕事の閾値」を可能な限り把握しておくことだと考えています。「理想」的なのは、こんなケースです。まず、仕事の閾値が低い人材を採用し、しっかり働いてもらう。でも、こうした人たちはついつい働き過ぎるので、労働時間は短く、休暇は多く、条件は高く設定する。しっかり働く人ばかりなら何とかこれが可能です。しかし、相対的に高い労働条件を提示すると今度は、高い閾値の目ざとい人材がたくさん応募してくるので、人事担当がさまざまな調査や試験や面接を行ってそれらを排除する。採用配置後も個々人の「敷居の高さ」を常にチェックし、面接で読み間違った、あるいはそれぞれ違いすぎると思ったら人事異動で調整し(なるべく同じ閾値の者を集め)、採用試験の方法そのものを改善していく。厳しい採用環境の中でこれがどこまで出来るか、「チーム医療も多職種協働も閾値管理次第」なのです。
人材の採用及び職場への配置を司る人事担当が最も気にかけなければならないのは、職業安定法や労働基準法の遵守は当然として、それ以上の興味関心をもって、採用配置対象となる医療従事者個々人の「仕事の閾値」を可能な限り把握しておくことだと考えています。「理想」的なのは、こんなケースです。まず、仕事の閾値が低い人材を採用し、しっかり働いてもらう。でも、こうした人たちはついつい働き過ぎるので、労働時間は短く、休暇は多く、条件は高く設定する。しっかり働く人ばかりなら何とかこれが可能です。しかし、相対的に高い労働条件を提示すると今度は、高い閾値の目ざとい人材がたくさん応募してくるので、人事担当がさまざまな調査や試験や面接を行ってそれらを排除する。採用配置後も個々人の「敷居の高さ」を常にチェックし、面接で読み間違った、あるいはそれぞれ違いすぎると思ったら人事異動で調整し(なるべく同じ閾値の者を集め)、採用試験の方法そのものを改善していく。厳しい採用環境の中でこれがどこまで出来るか、「チーム医療も多職種協働も閾値管理次第」なのです。
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