「その治療の成果は、患者の求める“アウトカム”になっていますか?」
貧しい時代、社会が求めていたのは「アウトプット」(生産量)でした。明日食べるものがない、お店に行ってもモノがない、の無い無い尽くしで、市民は様々なものに飢えていました。それを見て立ち上がった事業者が、生産を始めます。作ったそばから売れていくので、大量に作った事業者が評価されました。さらに、貧しい市民はおカネがありません。それゆえ出来るだけ安価なモノが求められていました。事業者はインプット(資材投入)にコスト(経費)とマージン(利益分)を乗せて価格を決めますが、それを抑えるために、大量生産を志向しました。量産効果でコストダウンが実現するからです。その意味でも、量産つまりアウトプットの量的拡大が大きな目標になっていました。
豊かな時代に入り、店先にモノが溢れるようになって、単なるアウトプットは評価されなくなりました。何かモノを作った、事業者がアウトプットしただけのモノに、消費者は見向きもしなくなります。消費者はモノに飢えているわけではなく、消費者が価値を見出したモノしか売れません。事象者が生産し売り出すアウトプット(生産物)によって、何らかの成果、効果、価値、満足が得られると消費者が確信したとき、消費者はそれを購入します。しかし、その「何らかの成果、効果、価値、満足が得られなかった」とき、消費者は不満を持ち、その事業者を低く評価し、社会に訴えます。消費者の「何らかの成果、効果、価値、満足」こそが、この時代の「アウトカム」(成果)なのです。
さて、これらを医療に置き換えて考えてみましょう。肺炎で発熱している患者を診察し、診療計画を定め、入院させて点滴抗菌薬を投入(インプット)します。幸いそれによって炎症が抑えられ、CRPが低下し熱が下がったとします。このときの「体温37.4度以下、CRP10mg/dL以下」という状態及びそれを示すデータ、これが医療の「アウトプット」です。しかしながら多くの患者は、このデータを客観的に評価することができません。「貧しい時代」が求めた工業社会は、「豊かな時代」に入り、既に情報社会へと変化しています。豊かな時代の患者の場合、そのアウトプット(治療結果のデータ)に「成果、効果、価値、満足」を感じられなければ、それは「アウトカム」ではないのです。「抗菌薬のインプットによって、私たちは下熱と炎症回復というアウトプットを得た。もう治療することはない。退院して欲しい」と医療従事者が説明しても、患者は「まだ私のアウトカムは来ていない。あなたのアウトプットに私は価値を感じないし、満足できていない。退院など論外。満足のいく治療をして欲しい」と出張し、両者の議論は平行線を辿ってしまうのです。
現代の豊かな情報社会においては、医療におけるアウトカムの目標は、あなたの患者が「何らかの成果、効果、価値、満足を得た」と感じるレベルに設定しなければ意味をなしません。患者が「成果、効果、価値、満足」を感じない限り、そのアウトカムは貧しい時代のアウトプットに過ぎないのです。医療従事者の出したアウトプットを、患者と家族がアウトカムとして評価できるように、解りやすい情報提供、客観的かつ相対的な状況説明、インタラクティブな(対話を介した)評価指導が徹底されなければなりません。「患者のアウトカム」のハードルは、情報社会の進展とともに、加速度的に高まってきているのです。
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